西 郷 南 州 と 天 道 |
平岡 禎吉 |
南州遺訓に次のような文がある。 |
「廟堂に立ちて大政を為すは、天道を行なうものなれば」 「道を行ふ者」 「道を踏まざる人」 |
など、天道とか道とか頻繁に用いられている。 |
南州には敬天愛人という有名な語もあるが、敬天愛人と天道、或いは道とは違った意義 |
があるのか、その内容を検討してみると、敬天愛人は標語的のもの、天道はその内容をな |
すものといってよいし、両者は表裏の関係にあると言えると思う。 |
そしてその両語は論語や中庸の本から引用されたようである。中庸の本は、孔子の教え |
を受けた後世の人が作ったものであるが、勿論孔子の思想を敷衍したもので、論語に「天 |
地位し、万物育す」とか、中庸には天命、性、道という冒頭の文がある。更に中と和の道 |
が説かれている。中和は天の道であるから、人の行なうべき道ともいう。 |
よって、天命、性、天道について考えてみたいと思う。 |
<天命とは何か> |
天地位し、万物育す。とあるように、天と地はそれぞれ其の所に位置して任務を行なえ |
ば、自然に万物が生育する。生まれた物は一日の寿命のもの、人間のように百年という寿 |
命のもの万種があるが、それぞれの寿命を全うするための命令がある。これが天命であり、 |
命令は形体に中に宿しているから、それを性といい、よって万物はそれぞれの性をもって |
いる。似た性をもって類といい、鳥類、魚類、動物の類など類は共通する性を持つ。人間 |
共通の持った天命も人間性となる。 |
万物はそれぞれ天から与えられた寿命を達成すべきものであるが、その過程の中に各種 |
の障害がある。そのために危険に対する不安があるために、群生して協力し、愛情をもっ |
て寿命達成すべき天命、性を具有している。その愛情を表したものが喜怒哀楽の感情で |
ある。つまり、性は静的であるが情は動的であって、性の発動が情であるから、性の理に |
従った情でなければならない。性も静的なものであるから、朱子は性を天理といい、性に |
従って正しく発動した情を中庸では天下最高のものとする。 |
万物はそれぞれの寿命を達成すべく天は細かい配慮を施している。つまりその類の機能の |
相違に適するように、独特な力が攻撃、防禦の両面に渉って妨害に対するものが賦与され |
ている。しかしそれでも孤立しては目的達成は不可能であるから、群生して協力し、互い |
の愛情によって類の寿命を達成しべき性が与えられた。したがって性は本質として静であ |
るから、平常は静であり、之を中庸では喜怒哀楽の未だ発せざる之を中という。中は天下 |
の大本であり、道を行なうための根本となる。更に、天の命ずる之を性といい、性に率う |
之を道という、と説いている。情なは喜怒哀楽の四つがあるが之は動的のものの呼称であ |
る。その情あ未だ発動しないものは情でなく、静的なものであるから性である。つまり |
人間性という静的に中にも四情を発すべき要素を含んでいる。 |
以上を総括して考えれば、性は生きるために不可欠なものであるが、しかしその所在を |
現さない無の状態である。この状態を中といい、生存の為には最も望ましい最高の性である。 |
しかし、生存には常に危険があり、非常に直面するものである。この時に類は協力して |
愛情を発動する。之が情であり、静なる性が活動して喜び、怒り、或るは哀しみ楽しみの |
情となる。之をもって考えれば性は静、情は動で、静動の差はあっても内容は同質のもの |
である。かくして感情は意志となり、やがて行為となるから、その行為は当然に天性に合 |
致し、完全な徳行として天道となる。之を和と称し、天下の達徳と強調する所似である。 |
よって中庸では、性に率がう、之えお道と言う。としている。 |
以上によって考えれば、中という絶対な性がなければ、和は生せず、現実には和なしで |
は寿命の達成も不可能であるから、平常においては中なるものを固く守り、非常あらば愛 |
情としての和を実行して、始めて類の生存が可能となることが明瞭となろう。 |
万物は天命たる性のままに動いて寿命を全うしている。海中や水中に生きるもの、地上 |
において生活する小鳥や小動物、その他すべての生きものは天性に率い、天の命令した形 |
を取って寿命を終わっている。ただし非常が発生した場合には、群生しながら互いの愛情 |
を発動し、危険から免れては喜び、外物の妨害に対しては怒り、不幸に遇えば哀しみ、或 |
いは群生の楽しみを現す。鳥や動物が人を見て逃げるのは、生きる不安から本能的に動 |
くのであるが、人を知らない南極のペンギンは動かないのである。しかし怖がる小鳥でも |
人間の愛情に対しては喜び、主人に懐つく風景は、今日のテレビなどでよくみる場面である。 |
性悪論者として有名な荀子という人の書いた本の中に、次にようなことが述べてある。 |
例えば大きな鳥や獣でも、その群集から脱落し、仲間から離れて一ヶ月も一季節も経過す |
ると、必ずもとの道を引き返し、古巣を通るときはぐるぐる徘徊し、鳴号し、足ずりした |
り、ためらいしてやっと立ち去るものである。蒸爵のような小鳥でさえもなお哀しい鳴き |
声をあげてから立ち去るという。 |
このような動物の愛情の中で特に強烈なものは親子の関係である。古来から和漢の文学 |
書に現われ、焼野の矩子(巣のある原野の焼ける中を親鳥が雛を助けにいく)、夜の鶴 |
(籠の中の鶴が夜半仲間を思い出して啼く)、乳狗の怒り(乳のみ子狗に近づく虎に、 |
親狗が挺身して攻撃を加える)、舐犢の愛(親牛が子牛をなめづる)など小鳥や小動物の |
親子の愛は日常においてよく目撃するところである。このようにしてすべての生物は、天 |
命に従って与えられた性のままに生きて天寿を全うするのである。 |
<人間の性> |
既に述べたように、人間も亦他の生物と同じように天命を受けて百年の寿命を全うすべ |
き性が与えられている。人間はその寿命を全うするために他の動物と違って知恵というも |
のを特に与えられている。知恵とは欲望に迷わされぬようにする知恵。人間はこの知恵を |
用いて百年の寿命を達成すべく天から命令されている。その与えられたものが所詮人間性 |
であり、その使い方において他の生物と同じく、中と和を実行すべき筈である。然るに |
人間は知恵というもののために欲が現れて天下の大本とも言うべき天道を見失って今日 |
に至っている。 |
人間はもともと百歳の寿を全うするように天の命令を受けている。之が天寿である。中 |
国の文字は殷の時代に出来たものと言われているが、それは今から三千年以上の古いこと |
で、その時代に老(七十歳)耄(バウ、マウ)は九十歳の人、期は百歳になった人が生存 |
していたのである。 |
今日の研究によれば、心臓の鼓動は一生の間に30億乃至35億くらいと言われている。人 |
間が一分間に60の鼓動として計算しても110歳余の寿命を保つ筈である。 |
このように古い時代から現実問題としても理論上から見ても人間百歳は天命であり、天 |
寿である。然るに文化が発達したと言われる今日、この天寿を全うする人は、稀にしか見 |
られない。 |
それは何故だろうか。単的に言えば、天命の人間性に叛いた行為をとったからであり、 |
天道たる中と和の道を踏み外したからだある。しかも人間自身の寿命だけでなく、万物の |
生命までも奪っている。海中に生息しているものが年々と減り、地上の動物も年々と少な |
くなる。ある研究によれば、一年間に17,000種の動植物が絶滅していると言う。医薬品の |
45%は野生植物から取ると言われているが、人間の無知と欲が積もっていくうちに、人間 |
自身が生存できない環境をつくっているのではないか。 |
更に人間は他の生物の寿命を奪うのではなく、人間同志の共食いにまで発展している。 |
戦争によって何百万の死者が出るのは勿論のこと、スターリンの独裁欲のため数千万人の |
人が犠牲になったと最近のソ連政府は発表しているが、これらはすべて人間の貪欲の現わ |
れである。人間が何かの欲にとり憑かれると、一瞬と言えども喜怒哀楽の発せざる中とい |
う心境に成り得ないのである。中から発した情でない限り平常な人間感情は保持できな |
いから、普通人の違ったことを喜び、違った怒りを抱き、一般人には理解できないことに |
哀楽を感じて暴挙言動をかきたてる。かかる独善感情が爆発して人類の共食いとなるので |
ある。見たい欲望、聞きたい欲望、食べたい、着飾りたい欲望、遊びたい、怠惰の欲望な |
どは肉体的欲望の類で、他への影響も少ないが、金、財、地位への異常な欲望、さては色 |
欲にまで発展して人々が不感症になった暁には、国家は勿論、人類の寿命も消えることで |
あろう。 |
以上はすべて、天命に叛き人間性を踏み外しそして天道を行なわなかったからである。 |
西郷南州は明治初年の政治家を見て将来を憂い、かかる世の現われるを見るに忍びず、天 |
道を守れと絶叫したと考えるのである。 |
天は万物と同じく人間には、寿命を達成させるために特別に知恵という力を授け、知恵 |
を使って百年の寿に到達させるために恵んだのである。人間の之を逆用し、天道を守らな |
いために天罰を与えられることは当然のことである。 |
人間の欲望を放置すれば、人類は消滅することは必然となる。今日の日本のように物が |
豊富になれば、自ら人の欲望も増大する。国の将来を考え、孔子や西郷南州のように克己 |
(己れの欲望を押さえる)ことはできなくても、せめて聖人といわれた老子の教えの寡欲を信 |
条として生き、足るを知るの日々でありたいものである。 |
かけはしー希望のメッセージ (1989年 平成元年5月31日 鹿児島城西ロータリークラブ) より転載 |
|
|
甲突川希望のメッセージ |
|
|
|