| 私の夢 生まれて死ぬのに 安心な町や村に |
| 新たなユートピアを甲南校区から |
| 鹿児島市立甲南中学校医(内科) 内科医 納 利 一 (46歳) |
| 四十年前の終戦直後、西駅前に立ってみたら、一面の焼け野が原であった。二中と測候所とガスビルと |
| そして高麗橋の袂に赤茶けた土蔵が一つ焼け残っているだけだった。それでもいつしか焼け跡にバラック |
| が建ち、でこぼこ道を荷馬車が通り始めた。私が中洲小学校を卒業し、甲南中学校の一年生になったのは |
| 昭和二十七年。当時学校の近くを一巡すると学級園の肥料にする馬糞がモッコいっぱいに集まるものであ |
| った。 |
| 新幹線が開通するものなら、福岡と一時間半で結ばれることになる。西駅の前にある私たちの甲南中学 |
| 校区は、これから先、どのように変貌していくものであろうか。 |
| 国が文部省および厚生省にまわす予算を削減しはじめたら、教育と保健と福祉と医療の先行きに不安感 |
| を持つ人々が急に増加してきた。教育界及び医療界は、安い費用で、質の高いサービスを提供する道を |
| 模索しなければならないときである。 |
| ところが一方、「教育産業(進学産業)」とか「医療産業」とかが成長産業の一つであると目されて、実業家 |
| が進出してきつつある。民間活力と称して、この方向を容認しようとする風潮さえある。しかし、教育や医療を |
| 事業家の手に渡してしまった場合、ますます費用が高くなるばかりでなく、さらに大きな副作用に悩まされる |
| ことになるであろうことは容易に予想できる。 |
| 株式会社などによる営利事業としての運営に本質的にそぐわないはずの教育と保健と福祉と医療を支え |
| る何かよい仕組はないものであろうか。 |
| 中洲小学校と荒田小学校と甲南中学校のある私たちの校区を考えてみた場合。ここで生まれ、育って、 |
| 仕事をし、子供を育て、年老いて、死んでいくのに「安心であれば」この地域の教育と保健と福祉と医療は |
| うまくいっていると言えるであろう。ここに住んでいる人々が心と力を合せれば安い費用でそのような地域 |
| にしていく道も開かれてくるであろう。 |
| たとえば生徒に老人を訪問させ、体調などに異常があれば保健室に報告させるようなことが実現したと |
| すれば、老人には生き甲斐と安心を与え、生徒には教育的効果が期待できるのではなかろうか。学校保 |
| 健や地域社会での生徒に亘る保健教育がうまくいけば、多くの病気の発生が予防され、必然的にその地 |
| 域の治療費は安くなっていくはずである。 |
| 地域ぐるみで協力して、自分達で行なっていくのが教育の本来の姿であり、それを指導し、手伝って下さ |
| っているのが教育のプロの先生方であるのだという考え方に立てば、地域全体の教育的土壌を豊にする |
| 努力が、住民の一人一人に求められる。校舎や校庭を地域住民の共有財産と考えれば、新しい発想のも |
| とにこれらを活用して、地域の教育と保健と福祉と医療の向上のために役立てていけるであろう。 |
| 教育と保健と福祉と医療のあるべき姿を考えてみるとき、お金だけをいくらかけても理想は遠のくばかり |
| であろう。お互いに自分たちの心と汗を直接注ぎあえる道を進みたいものである。近年ボランティア活動に |
| 生き甲斐を見い出そうとする人々が増えてきつつある。これは世の中がすでにこの方向に向かっている証 |
| 左とも言えよう。。 |
| 近い将来に予想される教育界や医療界の混乱を回避するためにも、「生まれて死ぬのに安心な」地域 |
| コミュニティ作りの夢を追ってみたいものである。 |
| 本校には三方限の碑がある。百二十年前に日本の方向づけをされた方々が顕彰されている。この方々 |
| が今生きておられたとしたら、今何を考えどう行動されるであろうか。 |
| 今こそ、人間の一人ひとりが、人間とは何か、社会とは何かを問い直して原点に帰ってあるべき「人間 |
| の社会」を目指すべきであろう。 |
| 1986年 昭和61年3月17日発行 鹿児島市立甲南中学校PTA新聞「三方限」(さんぽうぎり)より転載 |
| むらまちづくり甲突川 |