第33回三方限古典塾(09.7.16)
   佐藤 一斉(1772〜1859)「言志四録 (その26)」
 人才(じんさい)には、小大有り。敏鈍(びんどん)あり、敏大(びんだい)(もと)より用う可きなり。()だ日間の瑣事(さじ)は、
  小鈍の者(かえ)って能く用を成す。敏大の如きは、(すなわ)常故(じょうこ)を軽蔑す。是れ知る、人
  才(おのおの)用処有り、概棄(がいき)すべきにあらざるを。            言志晩録251
(意訳)人の才能には小も大もあり、敏捷も鈍重もある。敏捷かつ才の大なる者は当然用い
    ることができる。しかし日常の細かい事は鈍重・小才の者がかえって役にたつものだ。才
    能が敏大の者は、日常の事を軽く見て真面目に取り組まない。これから、人の才はそれぞ
    れ用いる所があって、一様に捨ててしまうようなことではない。
(余説)言志後録の「人は各能あり。器使すべからず無し。」(人にはそれぞれ違った才能が
    あり、それに随って使う途がある。)や、先月の「人各々長ずる所有り、短なる所有り。人
    を用いるには(よろ)しく長を取りて短を()つべし。」に通じるものです。
    そのためには、上に立ちその任を負う者が、才芸の大小や敏鈍を見抜く確かな目と、そ
    れを生かし動かしきる才覚を持っていることが前提ですが、なかなかそうはいかないのが
    現実なのでないでしょうか。
    また、生かし動かされる側も、己の分を知り、その任に徹するという意識をもつことも
    条件のひとつです。そう考えると、人を使い動かすとは難しいものだと思います。
南洲翁遺訓6 「人材を採用するに、君子小人の辨酷(べんこく)に過ぐる時は却って害を引起こすも
   の也。其故は開闢(かいびゃく)以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其長所を
   取り之を小職に用い、其材藝(ざいげい)(つく)さしむる也。東湖先生申されしは『小人程才藝(さいげい)有りて
   用便なれば、用ひざればならぬもの也。さりとて長官に()ゑ重職を授くれば、必ず邦家
   を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ。』」
 人情、吉に(おもむ)き凶を避く。(こと)に知らず、吉凶は是れ善悪の影響なるを。余は(かい)
  (さい)毎に四句を暦本に(だい)して以て家眷(かけん)(いまし)む。曰わく、「三百六旬、日として吉なら
  ざる無し。一念善を()す、是れ吉日なり。三百六旬、日として凶ならざる無し。一
  念悪を作す、これ凶日なり」と。心を以て暦本と為す。可なり。   言志晩録252
(意訳)人の気持ちは、吉を求め凶を避ける。しかし、吉凶はその人の善悪によるものだと
    いうことを知らない。自分は歳が改まるごとに次の四句を暦に書いて家族を戒めている。
    それは「一年中、一日として吉日でない日はない。一筋に善いことをすれば吉日である。
    また一年中、一日として凶日でない日はない。悪を行えば当然凶日である。」要するに心を  
    暦とすればそれでよいことだ。
(余説)太陰太陽暦(太陰暦)で吉凶を定める基準とする「六曜」の一つの「仏滅」は万事
    に凶、「大安」は万事に吉となる日など、とかく俗信します。しかし、一斉先生のみならず、吉
    田兼好も徒然草において「吉日に悪をなすに必ず凶な り。悪日に善を行ふに必ず善なりと
    いへり。吉凶は人によりて、日によらず。」(91段)と 明言しています。宿命という言葉も
    ありますが、日々の自らの運命というのは、せめて2 割か3割くらいは自分の努力で切り拓いて
    命を運ぶことができるものだと、私は考えたいところですが、「いや自分はもっと多い」
    という意見が多数派のようです。
 昨日を送りて今日(こんにち)を迎え、今日を送りて明日(みょうにち)を迎う。人生百年()くの如きに過
  ぎず。故に(よろ)しく一日を慎むべし。一日慎まずんば、(しゅう)身後(しんご)(のこ)さん。(うら)むべ
  し。羅山(らざん)先生()う、「暮年(ぼねん)宜しく一日の事を(はか)るべし」と。余謂う、「此の言浅きに
  似て浅きにあらず」と。                    言志晩録258
(意訳)昨日が過ぎて今日を迎え、今日が過ぎて明日を迎える。人の一生はもし百年であっ
    てもこれと同じ繰り返しである。したがってその日一日を過ちのないようにしなければ、
    恥を死後に遺す。林羅山先生が「老年になったら、今日一日をよく考えて過ごすべきだ」
    と言われた。この言葉は一見浅薄のようであるが、実に深い意味をもっている。
(余説)昨日はすでになく、明日はまだ来ない。あるのは「今、ここ」だけ。「朝がくるごと
    に、今、ここを充実し、大切にして生きよ」と、道元や良寛も、釈尊や老子も繰り返し教
    えています。「今、ここで自分がなすべきことは何か」に全精力を傾けよというのです。
    また、日本曹洞宗の開祖道元は、その著「正法眼蔵」で「『今ここ』だけが生きた時であ
    る。遠い過去から無限の未来へ、棒のように伸びる時間など存在しない。人生にリピート
    はない。」と説いています。
正法眼蔵「而今の山水は古仏の道現成なり。ともに法位に住して究尽の功徳を成ぜり」
     (人が生きる「今ここ」だけが生きたときである。遠い過去から無限の未来へ棒のよ 
     うに伸びる時間など存在しない。)