第30回三方限古典塾(09.4.16) |
佐藤 一斉(1772〜1859)「言志四録 (その23)」 |
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1 自ら欺かざる者は、人欺く能わず。自ら欺かざるは誠なり。欺く能わざるは間 |
無ければなり。譬えば生気の毛孔よりずるが如し。気盛なる者は、外邪襲う能 |
わず。 言志晩録211 |
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(意訳)自ら欺かない人は、他人も欺くことができない。その心が誠であるからである。 |
他人が欺くことができないのは、欺く隙がないからである。それは生き生きとした気が毛 |
穴から出るようなものであり、その気が盛んならば外から邪気が襲うことができない。 |
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(余説)現実には、善良な人が無惨に騙されるような詐欺事件が続発しています。「人を |
見たら泥棒と思え」「渡る世間に鬼はなし」のどちらも真理です。しかし、少なくとも |
自分は「だまされない」「だましもしない」人間でありたいものです。 |
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中国三国志の赤壁の戦い「レッドクリフ(映画)」が今話題になっていますが、日本の戦 |
国時代も何れも「乱世」でだまし合い、裏切り合いは日常茶飯事の世界です。 |
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西郷南洲翁遺訓「人を籠絡して陰に事を謀る者は、好し其事を為し得る共、慧眼より之を |
視れば醜状著しきぞ。人を推すに公平至誠を以てせよ。」 |
(人をごまかして、影でこそこそ事を企てる者は、もしそれを為しえても物事を見抜く |
目を持った人からみると醜いことこの上もないものだ。) |
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2 人、得意の時は輒ち言語饒く、逆意の時は則ち声色を動かす。皆養の足らざ |
るを見る。 言志晩録215 |
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(意訳)多くの人は、得意の時には口数が増え、失意の時は声や表情が動揺しがちである。 |
これは皆、修養が足りないことを示している。 |
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(余説)人間の陥りやすい傾向や、そのときの心得を身に付けていることは、生涯を通じ |
ての日常生活での大切な心構えです。 |
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中国明代の崔銑の言葉に「六然訓」があります。勝海舟も好んだと聞きます。 |
「自ら処すること超然」 (自分に関することには囚われない) |
「人に処すること藹然」 (人に接するときにはおだやかに) |
「有事の時には斬然」 (何か問題が起きたらすばやく取り組み) |
「無事の時には澄然」 (何も問題のないときは心を落ち着かせ) |
「得意の時には澹然」 (得意のときにはもの静かにさっぱりと) |
「失意の時には泰然」 (望みが叶わないときにはゆったりと落ち着いて) |
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3 学は須く心事の合一するを要すべし。吾れ一好事を做し、自ら以て好しと為 |
し、因って人の其の好きを知るを要む。是れ則ち矜心の除かざるにて、便ち是 |
れ心事の合一せざるなり。 言志晩録218 |
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(意訳)学問をすることは、自分の心と行いが一致させるということである。自分がした |
よい事を自分で是認し、他人にそれを認めるよう求めるのは、その人にほこる心が残っ |
ており、心と行いが合一でないことである。 |
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(余説)陽明学が主張する認識と実践の一致「知行合一」です。西郷隆盛の行動指針「「思 |
ったことは行ったと同じで、行わないことは知らないに等しい。」でもあります。 |
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日本曹洞宗開祖道元の法話を弟子懐弉が平易な言葉で筆記した「正法眼蔵随聞記」にも、 |
「善事をなしては人に識られんと思ひ、悪事をなしては人に知られじと思ふ。好事をば |
人に譲り、悪事をば己に向かう志気有るべきなり。」とあります。 |
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4 人皆一室を洒掃するを知って、一心を洒掃するを知らず。善に遷りて毫髪を遺 |
さず、過を改めて微塵を留めず。吾れ洒掃の是くの如くなるを欲して、而も未だ |
能わず。 言志晩録211 |
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(意訳)人は皆、部屋を掃除するのは知っているが、わが心を掃除するのは知らない。悪 |
から善に移る際には悪をごく僅かでも残してはならず、過ちを改める際にはそれを少し |
も残してはならない。自分もそうありたいと思っているが、未だにできないでいる。 |
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(余説)ともすれば心には汚れが溜まるので、心を掃除することを認識せよと言っていま |
す。ここで言っている汚れとは「悪・過ち・欲望・怒り」などでしょうか。 |
何をもってその一心を掃除するか。「宗教、読書、音楽、スポーツ、趣味、旅行」 |
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心を掃除して硬直した人間にならないために、自身を反省する鏡・視点の古典を置いてい |
ますが、だからといって「古典主義」に硬直化することへも自戒が必要です。 |
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栖掃の「栖」はさらさらと水を流して洗う、「掃」はほうきを手に持って掃く意です。 |
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