第28回三方限古典塾(09.2.19)
        佐藤 一斉(1772~1859)「言志四録 (その21)」
1 人事(にんじ)は期せざる所に(おもむ)く。(つい)に人力に非ず。人家の貧富の(ごと)き、天に係る有
     り。人に係る有り。然れども其の人に係る者は、(つい)に亦天に係る。世に処して
     ()く此の理を知らば、苦悩の一半(いっぱん)を省かん。          言志晩録191
(意訳)人に関する事は、ややもすると予期しない方向へ進展する。結局は人の力ではな
     い。まるで世の中に貧富があるのと同じである。これらは天運によるものがあり、人力
    によるものもあるように見える。しかし、人力によるように思われても、結局は天によ
    っている。そこの道理が分かれば、苦しみや悩みは半減できるのではないか。
(余説)前回の言志晩録190「富人を(うらや)むこと(なか)れ。貧人を(あなど)ること勿れ。畢竟(ひっきょう)天定な
    れば、各々其の分に安んじて可なり。」を承けていますが、これには多くの人が反論又
    は疑問を抱かれるのではないでしょうか。これは一側面であり他の側面が存するように
    思います。中国南宋の文章軌範に「盛衰の理は天命とい曰うと(いえど)も、()に人事に非ざら
    んや。」とあります。一方、老子は「(おもんばか)らずの誉れあり。全きを求むるの(そし)りあり」
    と、偶然がしばしば運命を決定すると言っています。
    陽明学者の安岡正篤(1898-1983)は「命とは、先天的に賦与されている性質能力であ
    るから『天命』と謂い、また、それは後天的修養によっていかようにも変化せしめられ
    るものという意味において『運命』とも謂う。人間が浅はかで無力であると、いわゆる
    『宿命』になる。」と書いています。「宿」はとどまって離れないの意味
    結局私たちにできることは、「人事を尽くして天命を待つ」(人としてできる限りのこ
    とをしたら、後は天の意志に任せる。)ということに尽きるように思います。ある漢詩
    の一句に「三分の人事、七分の天」とあることです。
2 人は皆将来を図れども、而も過去を忘る。殊に知らず、過去は乃ち将来の路
  頭たるを。分を知り足るを知るは、過去を忘れざるにあり。   言志晩録193
(意訳)人は先々のことはあれこれ考えるが、過去のことは忘れがちになる。特に過去が
    未来のはじまりであることなど考えない。自分に応じた分際を知ってそれに満足するこ
    とは、過去を忘れないことによって可能になる。
(余説)過去を正しく理解することによって、物事は広い視野で多面的に考えたいもので
    す。過去を忘れないということは、「今ここ」を大切にすることになります。
    それには、自己史をふり返って自己を理解し、歴史や古典・先哲をふり返って人とい
    うものを理解することです。山本七平がその著書「日本人の危機」で、「過去を知る以
    外に未来を推し測る方法があるか。」と言っています。
    老子には「禍は足るを知らざるより大なるはな莫く、とが咎は得るを欲するよりいたま惨しきは
    莫し。故に足るを知るの足るは常に足る。」とあります。現今ともすれば見られる、物
    を貪り続けているような風潮は、最もいたましい罪過ではないでしょうか。
3 背撻(はいたつ)の痛さは耐え易く、胸擽(きょうりゃく)(かゆ)さは忍び難し。       言志晩録197
(意訳)背中を鞭で打たれる痛みは耐えることもできるが、脇の下をくすぐられる痒さと
    いうものはとても辛抱できない。
(余説)人は、直接に面と向かって厳しく叱られることは耐えられますが、意地悪く遠回
    しにうじうじと皮肉されることはとても我慢でき難いものです。
    人を叱ることはどんな場合でも難しいものです。誉め方と叱り方の要諦は「誉めるこ
    とは間接的に、叱ることは直接にせよ」だとも聞いたことがあります。
    道元禅師の教えを書きとめた正法眼蔵随聞記には「打つべきをば打ち、呵責すべきを
    呵責すとも、謗り咎め過失を言い立てる心を起こすな」とあります。要するに叱る側の
    根底に一片の「誠意」があるかどうかではないでしょうか。
4 愛敬の二字は、交際の要道たり。傲視(ごうし)して以て物を(しの)ぐことなか勿れ。侮咲(ぶしょう)して
  以て人を調すること勿れ。旅獒(りょごう)に、「人を玩べば徳を喪う」とは、真に是れ明戒
  なり。                           言志晩録198
(意訳)人を愛し敬うという二字は、人と交わる上の大切な心掛けである。傲慢な態度で
    人をはずかしめたり、侮り笑って人をからかってはならない。書経にある「人を侮った
    りからかったりすると結局は自分の徳を失ってしまう。」は、すぐれた戒めである。
(余説)人の言葉や態度に顔では笑って接していても、心には消えない傷が残ることもあ
    ります。現今の人を玩んで喜んでいるTV番組や、けらけら笑いつつそれを見ている姿
    も気になります。子どもたちのメールによるいじめも大きな問題です。
    中国儒教の五経の一つ書経に「人を玩べば徳を喪い、物を玩べば志を喪う。」(人を侮
    ったりからかったりすれば、自らの品性や品格を失うことになる。物をあまりに大切に
    すれば、人として在るべき道義の念を失う。)とあるとおりです。
    「敬」は、うやまう・つつしむということですが、羊の角+人+口からなり「羊の角
    に触れて人がはっと驚いてからだを引き締める」意味
    「咲」は、日本では「花が咲く」と用いますが、口がついており、元々の中国では「口
    をすぼめて笑う」意味