第25回三方限古典塾(08.11.20)
    佐藤 一斉(1772〜1859)「言志四録 (その18)」
 勧学の方は一ならず。各々其の人に()りて之を施す。()めて之れを勧むるこ
  と有り。激して之れを勧むること有り。又称めず激せずして、其の自ら勧むる
  を待つ者有り。()お医人の病に(くすり)を施すに、補瀉(ほしゃ)一ならず、必ず先ず其の(やまい)
  察して(しか)するがごとし。                   言志晩録167
(意訳)学問を勧めるやり方はいろいろであり、相手によってそれぞれ異なります。誉め
    てやる気にさせたり、強く励ましてやる気にさせたりする方法もあります。また、誉め
    も励ましもせずに、本人がやる気になるのを待つのがよい者もいます。これは医者が患
    者に薬を施す場合、ある者には足りない栄養を補い、ある者には下剤を与えるように、
    その病状によって処方するのと同じです。
(余説)真珠湾奇襲時の連合艦隊司令長官山本五十六大将に「やってみせ説いて聞かせて
     させてみて誉めてやらねば人は動かじ」があります。しかし学校教育・社員教育・家庭
     教育何れも同じく、万人共通絶対の教育原理など存在しないように思います。それは教
     える側と教えられる側それぞれの人により異なり、また時によっても異なります。その
     見極めが肝腎であり難しいところです。
     佐藤一斉は重職心得箇条においても「応機と云ふ事あり。肝要なり。」と、誉め時・
     叱り時・学び時のタイミングの必要を説いています。孟子は、君子三楽の一つに教育を
     あげて「教えも亦術多し」として五つの教育法を示しています。
 事を人に問うには、虚懐(きょかい)なるを要し、(ごう)(さしはさ)む所有る可からず。人に替りて
  事を処するには、周匝(しゅうそう)なるを要し、(やや)欠くる所有る可からず。  言志晩録168
(意訳)物事を人に尋ねたり学んだりするには、心になんのわだかまりも持たずに謙虚で
     平静な態度でのぞむことです。わずかでも自分の考えにこだわるような私心・我見が
     あってはなりません。また、人の身になってその人のために何かをしてやるというような
     場合には、配慮が周到でなければならず、少しでも足りないことがあってはなりません。
(余説)自分の頭を空っぽにしないと人の話は入りません。このことは、教育のみでなく
     対人関係の全てに言えることです。しかしながら打算がはたらいたり、才をひけらかし
     たりが見られるのが現実です。
     日本曹洞宗開祖道元の教えを筆録した「正法眼蔵随聞記」には、「学道の用心、本執
     を放下すべし」「虚襟にあらざれば忠言をいれず」「わずかも己見を存せば師の言葉耳に
     入らざるなり」など、自分に執着する気持を投げ捨てよと各所に見られます。
     島津日新公いろは歌は、「流通(るづう)すと貴人や君が物語りはじめて聞ける顔もちぞよき」
     と、よく知っていることも人が語ることは初めて聞いたような顔で聞けと諭します。
 我が言語は、吾が耳自ら聴く可し。我が挙動は、吾が目自ら視る可し。視聴
     既に心に()じざらば、則ち人も(また)必ず服せん。          言志晩録169
(意訳)自分の言葉は、自分の耳で聞いてみることです。自分の行いは、自分の目で見て
     みることです。自分で聞き自分で見たことがその心に恥じることがなければ、人もあな
     たに付いてきます。
(余説)室町前期の能役者・能作者世阿弥は、その著花鏡に「離見の見」ということにつ
     いて、演者の心を自己の外に置いて観客の眼と同じ心の眼で自分の姿を冷静かつ客観的
     に眺めることの必要を書いています。
     明治から昭和の小説家幸田露伴は「洗心録」で「ただ人自ら省みて己を知らんとする
     の念起こることの少なきは恨むべし」、中国戦国時代の思想家墨子は「君子は水に(かんが)
     ずして人に鏡みる。水に鏡みれば面の容を見る。人に鏡みれば則ち吉と凶とを知る。」
     と自分の姿を写し見ることを述べています。
     鎌倉幕府第5代執権北条時頼は、能「鉢の木」で登場するなど民政に尽くした名君で
     すが、「わが心 鏡にうつるものならば さぞや姿の 醜かるらん」と詠んでいます。
     ここら辺が納得できる多くの人の常でしょうか。少なくとも私はそうです。
 慎独(しんどく)の工夫は、当に身の稠人広坐(ちゅうじんこうざ)の中に在るが如きと一般なるべく、応酬の
  工夫は、当に間居独処の時の如きと一般なるべし。       言志晩録172
(意訳)一人でいるときにも気を配って心を正しくするためには、たくさん集まっている
     人の中にいるのと同じような気持で振る舞うべきです。人と接するときの工夫は、一人
     閑でいる時のように静かに落ち着いた気持ちで振る舞うよう心掛けることです。
(余説)論語と並ぶ四書の一つ大学に「君子は必ず其の独りを慎む。小人間居して不善を
     為す。至らざる所なし。」、同じく五教の一つ詩経にも「汝の室に在るを()るに尚お屋漏
     に愧じず。」と一人でいる時に身を慎むことを説いています。
     西郷南洲翁はその手紙に「至誠の域は、先ず慎独より手を下すべし。間居則ち慎独の
     場所なり。小人は、此の処万悪の淵薮(えんそう)なれば、放肆柔惰(ほうしじゅうだ)の念慮起さざるを慎独と云うな
     り。是善悪の分るる処なれば心用ゆべし。」と、一人で居る時は物事の悪が集まりやす
     く、わがままや怠ける心が起きやすい。そこでどう処するかが良い方向に進むか、悪い
     方向に落ち込むかの別れる所となると戒めています。