第24回三方限古典塾(08.10.16)
     佐藤 一斉(1772~1859)「言志四録 (その17)」
 官に()る者は、事未だ手に到らざるとき、阪路を()ずるが如し。歩歩(ほほ)艱難(かんなん)
  れども(かえ)って蹉跌(さてつ)なし。事既に手に到れば、阪路を下るが如し。歩歩容易なれ
  ども、ややもすれば顛頓(てんとん)を致す。               言志晩録152
(意訳)役所に仕えている人は、仕事に馴れない時は、まるで坂道をよじ登るように一歩
    一歩苦労するけれども、かえって失敗は少ない。しかしながら、仕事に馴れてくるとま
    るで坂道を下るように、一歩一歩は難しくないけれども、かえって逆さに転げるように
    失敗することがあるものです。
(余説)このことは、役所の仕事に限らず全ての仕事、さらに人生全ての出来事に言え
     ることです。人は得意の分野で失敗することが多く、順調な時ほど周りが見えなくなる
     のであることは、歴史や社会が多々教えてくれます。人間とは「得てしてそのように陥
     りやすいものだ」という認識を絶えず持ちたいものです。
  南洲翁遺訓39に「才に任せて為す事は、危なくして見て居られぬ。」があります。
 そうは言っても、若いうちの失敗は一生にわたって効き目のある良薬になります。しか
 し、壮年以後の失敗は、やり直すことや取り戻すことが極めて難しいのも事実です。い
 ずれにしても、「叱ってくれる人がいる間が花」ではあります。
 事物に応酬するには、当に先ず其の事の軽重(けいじゅう)を見て而る後に之を処すべし。
  仮心(けしん)を以てすることなか勿れ。習心を以てすること勿れ。多端(たたん)(いと)いて以て苟且(かりそめ)
  ること勿れ。穿鑿(せんさく)に過ぎて以て繳住(きょうじゅう)すること勿れ。       言志晩録153
(意訳)物事を処理していく場合には、まずそのことがらの大事さの程度を考えてからに
    することです。いい加減な気持で処したり、慣れているからといって疎かに考えたり、
    忙しいのを嫌って粗略にしてはいけません。また、あれこれ細かい点までこだわりすぎ
    て、決断が遅れ処理があまりに遅くなるのもよくないことです。
(余説)これも政治・経済・教育・仕事・家事全てに言えることです。優先順位・プラ
     イオリティーについて、的確に判断し間違えてはならないとの教えです。
     世の中は全てのことが、優先順位に係わる問題であるとも考えます。それはその人が
     有する「バランス感覚」の問題であり、「センス」の問題でもあります。
  自分がどのような優先順位をもち、その事にどれほどの重みをおいているかを見直し
 てみることは、自分というものをあらためて理解し直す好機にもなります。
 佐藤一斉は重職心得箇条10でも「まつりごと政は大小軽重の弁えを失ふべからず。緩急前後
 の序を誤るべからず。」と戒めています。
 人には各々好尚(こうしょう)有り。我が好尚を以て、彼れの好尚と争うは、(つい)に真の是非
  を見ず。大抵、事の真の是非に(あずか)らざるは、彼れの好尚に任ずとも、亦何の妨
  げか有らん。乃ち兢々(きょうきょう)として己れに()りて、以て銖錙(しゅし)角争(かくそう)するは、(ただ)に局量
  の小なるを見るのみ。                    言志晩録165
(意訳)人にはそれぞれ特別の好みというものがあります。自分の好みをもとにして、他
    人の好みとあれこれと争うのでは、結局は本当の善悪を見極めることなどできません。
    大抵のことがらは、事の善悪に関係しないようなことであれば、相手の好みに任せて
    も何の支障もないものです。びくびく恐れふるえて、自分にこだわりすぎ、わずかな違
    いに角突き合わすのは、自分のスケールが小さいことを見せるだけになります。
(余説)好尚とは、仕事・人物・言葉・趣味など広い意味での「好み」ととらえます。
    個性的で自負心の強い人で上司の立場にある者は、そのことで部下を苦労させることが
    多く、特に配慮したいものです。
    佐藤一斉は同じく重職心得箇条2で「もし、自分に部下の考えよりも良いものがあっ
    ても、さして害のない場合には、部下の考えを用いる方が良い。」と諭します。
    大勢に影響のないことや、さほど違いがないようなことは他者に譲っていける度量を
    有するような人間でありたいものです。
  これに類する教えは、南洲翁遺訓29「事には上手下手あり、物には出来る出来ざる人
 あり。」、徒然草167「我が智をとり出でて人に争うは、角あるものの角をかたぶけ、牙
 あるものの牙をかみ出だすたぐひなり。」、同193「つたなき人の、碁打つ事ばかりにさ
 とく巧みなるは、賢き人の、その芸におろかなるを見て、己が智に及ばずと定めて、己
 すぐれたりと思はん事、大きなる誤りなるべし。」、菜根譚前集82「趣味は冲淡なるを要
 するも偏枯なるべからず。」などもあります。
 銖と錙は何れも重さや貨幣の単位であり「わずかなもの」ぐらいの意味です。