第23回三方限古典塾(08.9.18)
         佐藤 一斉(1772〜1859) 「言志四録 (その16)」
1、 物の所を得る。是れを治と為し、事の宜しきに(そむ)く。是れを乱と為す。猶お
    園を治むるがごときなり。樹石の位置、其の恰好(かっこう)を得れば、則朽株敗瓦(ちきゅうしゅはいが)も、
    亦皆趣を成す。故に聖人の治は、世に棄人(きじん)無し。        言志晩録129
(意訳)適材が適所に配されていると世の中は治まり、そうでないと乱れます。それはま
         るで庭園に似ています。庭園は樹木や石の配置が所を得ておれば、たとえ朽ちた木の株 
         や欠けた瓦であっても、それなりの趣がでてくるものです。よく治まった世では人はそ 
         れぞれ適所に配せられていて、誰を選び誰を捨てるなんてことはしません。
(余説)老子27章にも「是れを以って聖人は常に善く人を救う。故に人を棄つる無し」
          と「棄人無し」の文字が見えます。
         南洲翁遺訓6には「人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は却って害を引起
         こすもの也。其故は開闢(かいびゃく)以来世上一般十に七八は小人なれば能く小人の情を察し、其
         の長所を取り之を小職に用い、其材芸を尽さしむる也。」とあります。
         言志後録63にも「物其の所を()るを(せい)と為し、物其の所を失うを(すい)と為す。天下人有
         りて人無く、財有りて財無し。是れを衰世(すいせ)と謂う。」と、人や財が適切なところに配さ
         なければそれは無いのと同じだと戒めています。
         適材適所の判断は難しく、それを見極める眼を備えたリーダーの存在が貴重です。
2、 財を賑わすは租を免ずるに如かず。利を興すは害を除くに如かず。     言志晩録131
(意訳)人々の仕事を盛んにし暮らしを豊かにするには、租税を免じるに勝るものはあり
         ません。利益になるような新しい仕事を始めるよりは、害になっているものを取り除く
         に勝るものはありません。
(余説)景気の動向や暮らしなどとの関わりで、税の問題が現在も関心事です。
         南洲翁遺訓13にある「租税を薄くして民を(ゆたか)にするは、則ち国力を養成する也。故
         に国家多端にして財用の足らざるを苦しむとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を
         虐たげぬもの也。」など、現社会の状況にもそのまま当てはまります。
         老子75章「民の飢うるは、其の上の税を食むことの多きを以て是を以て飢う」も南
         洲翁遺訓と同じ意味でしょうか。
         改革の視点については、十八史略に「一利を興すは一害を除くに若かず」のように同
         じような文があります。
        一方、呻吟語の「一法立ちて一弊生ずるは誠に是なり。しかれども弊生ずるによりて
         法を立てざるは、未だその是たるを見ざるなり。」(改革には弊害が必ず伴う。だからと
         いってそれを改めないのは正しいことではない。)もまた真なりと思います。
、 恩怨分明(おんえんぶんめい)なるは、君子の道に非ず。徳の報ず可きは固よりなり。(うら)みに至っ
    ては、則ち当に自ら其の致しし所以(ゆえん)を怨むべし。        言志晩録150
(意訳)恩には恩で報い、怨みには怨みで返すというように受けた恩と怨みを明確に分け
        るのはよくないことです。受けた徳に報いることは当然です。しかし、怨みについては
        自分がなぜ怨まれることになったのかを省み、そのところを怨むことです。
(余説)論語の「直を以て怨みに報い、徳を以て徳に報いん」や、老子63章の「怨みに
         報いるに徳を以てす」も同じような趣旨です。
         しかし老子79章「大怨(たいえん)を和するに、必ず余怨(よえん)あり」や、菜根譚「怨みは徳に因りて
         彰わる。故に人をして我を徳とせしむるは徳と怨みと両つながら忘るるに如かず。仇は
         恩に因りて立つ。故に人をして恩を知らしむるは恩と仇との倶に滅ぼすに若かず」など
        は、しこりは必ず後に残るものであり忘れる外にはないと戒めます。
        まさに「一度生じた人の怨みをなくすることは北極の氷を融かすよりも難しく、怨み
        に怨みで報いると怨みが息むことはない。怨みを棄ててこそはじめて怨みは息む。」と
        いうことは私の実感です。良寛にも「そこにとふる()は融くれどもうつせみの人の心の
        ()ど融けがたき」(底までとおる氷)があり、同じ思いだったのですね。
4、 人情の向背は、(けい)(まん)に在り。施報(せほう)の道も亦(ゆるが)せにす可きに非ず。恩怨(おんえん)は或
      いは小事より起こる。慎むべし。                言志晩録151
(意訳)人の心が自分の側につくか、それとも自分から離れるかの違いは、自分がその言
        動を慎み他人を尊敬しているか、それとも人を侮りゆるがせにしていないかということ
        にあります。また、人に恵みを施したり、恩に報いたりすることもいい加減にしてはな
        りません。恩や怨みはとかく些細な事から起こるものです。大いに慎むことです。
(余説)「敬」には、自己の言動を慎み他人を尊敬するという自他両面の意味があります。
         ただ、それはさっぱりとしてわだかまりがない「活敬」であるべきで、ぐずぐずして縮
         みあがるような「死敬」では困ります。
        「慢」は、怠る、ゆるがせにする、侮るなどの意味で、慢心、怠慢、傲慢などです。
        我慢には自分の才や力をほこり、他人をばかにすることという意味もあります。
        言志後録17に「()は不敬に生ず。()(けい)すれば則ち過自ら少なし、もし(あるい)(あやま)
        ば則ち(よろ)しく速かに之を改むべし。速かに之を改むるも亦敬なり」(過は過ち、不敬は
        慎みがなく自らを顧みないなどの意味です。)
        老子63章の「天下の難事は必ず易きより(おこ)り、天下の大事は必ず細きに作る」にも
        心したいものです。
        平家物語の巻第一祇園精舎の「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし」は
        あまりに有名ですね。