第21回三方限古典塾(08.7.17)
  佐藤 一斉(1772〜1859)「言志四録 (その14)」
. 心は(たいら)なるを要す。平なれば則ち定まる。気はい()なるを要す。易なれば則ち直し。
                                          言志晩録6
(意訳)どんな時でも自分の心を平安に保つよう努めることが大切です。そうすれば心は
     自然に安定してきます。また、気持は安らかに保つよう努めることが大切です。
     そうすれば物事は直ちに好ましい状態になります。
(参考)平常から、私が私がという自己中心の狭い心や我執・執着を離れ、心気を調える
     ことの大切さを説いています。いかにしてそれを可能ならしめるかが肝腎です。
     「気」の重視やこころと身体は密接な関連があるとする「心身二元論」は元来東
     洋的な思考であり、ヨガ、坐禅、太極拳、気功、静坐などが注目されています。
          貝原益軒の「養生訓」 「養生の術は先ず心気を養うべし。心を和にし、気を平ら
          かにし、いかりと欲とをおさえ、うれい・思いを少なくして、心を苦しめず、気を損
          なわず、是心気を養う要道なり。」
          洪自誠の「菜根譚(前207)」 「性燥き心粗き者は、一事も成すこと無し。心和ら
          ぎ気平らかなる者は百福自ずから集まる。」
          崔銑「六然」 「自処超然 処人藹然 有事斬然 無事澄然 得意澹然 失意泰然」
2. 人と為り沈静なる者は、工夫(もっと)も宜しく事上の錬磨を勉むべし。恢豁(かいかつ)なる者
     は、則ち工夫宜しく静坐修養を忘れざるべし。其の実、動、静は二に非ず。(しばら)
      く病に因って之に薬するなり。則ち是れ沈潜なるは剛もて(おさ)め、高明なるは柔
      もて克むるなり。  
                                                                                  言志晩録8
(意訳)穏やかな性格の人の修養では、具体的な仕事を通して修練するように手段を講じ
         ることです。活発な性格の人は静坐しての修養を講じることです。前者は動的、後者
        は静的な修養法ですが、もともと二つあるのではありません。それは病気の種類に応
        じて薬を変えるようなものです。深く考えるタイプの人には厳しい仕事で短所を克服
        し、徳が高く賢明な人には穏やかなやり方でその短所を補い、各自の欠点を補完する
        のがよいのです。
(参考)王陽明が説く「事上錬磨」は、実際の事に当たることによって精神を修養するこ
          とです。それも人に応じて方法は変わるべきだというのですが、現実にはその判断を
          することはなかなか難しそうに思います。恢も豁も広い、啓けるという意味です。
3. 一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を(うれ)うること(なか)れ。只だ一燈を頼め。
                                                                               言志晩録13
(意訳)夜暗い道を行くときには一つのともしびを提げます。そうすればどんなに暗くて
         も心配するには及びません。ただ、そのともしびを頼りにして行けばよいのです。
(参考)「暗夜」とは辛く難しいことの多い人生を、「一燈」とは自己が本来有する良心
         を暗示しています。現代はともすれば過去の価値や基準が変わり、情報量も多すぎ、
         「自分は何を拠り所とし、何を目指すべきか」という頼むべき一燈が確認でき難くな
         っています。宗教・哲学・人物・書物・自己などを学ぶ必要がありそうです。
         伝教大師最澄の師である湛然(たんねん)の言葉に「一燈照隅・万燈照国」があります。これは
         自分が一燈となって回りの闇を照らすこと、それが国を支えることを教えています。
        その人なりに自分の仕事を通じて世のため貢献し、その場その場においてなくてはな
        らない人になる生き方、それが「一燈を照らす」ということです。
        その「一燈」の選択を誤ってしまうと大きな危険を招くような場合もありそうです。
4. 濁水も亦水なり。一たび澄めば清水となる。客気(かつき)も亦気なり。一たび転ずれ
    ば生気と為る。逐客(ちつかく)の工夫は、只だ是れ克己のみ。只だ是れ復礼(ふくれい)のみ。
                                                                             言志晩録17
(意訳)濁った水もやはり水であることには違いありません。澄んでくればきれいな水に
         なります。本物でない「から元気」もやはり気力には違いありません。一たび変われ
         ば生き生きとした「本物の活力」になります。「から元気」を「本物の活力」に変え
         るには、己の弱さに打ち克ち、礼儀を正すような修行以外にはありません。
(参考)論語の「克己復礼為仁」(己ニ克テ礼ニ復ルヲ仁ト為ス)は、己の私欲に打ち克って自我
         を没し、節度を守ることが善政を行う仁であるという意です。孟子の「性善説」(人
         は先天的に善を具有し、悪の行為はそれが隠蔽されているからである。)に通じるよ
         うにも思えます。
         人は、仕事や佳い人・佳い風景・佳い事、佳い書物との出会いによって変わるもの
         です。菜根譚には「人を看るには只その半截を看よ」(人を評価するには後の半生を
         見ればよい))もありました。そう言えば「若気の至り」という言葉も聞きます。
         それにしても、昨今世情の食品産地偽装や中央省庁不祥事・尊属殺人・非常識人間
         の氾濫などの現象も「性善説」で果たして説明できるのでしょうか。