| 第20回三方限古典塾(09.6.19) |
| 佐藤 一斉(1772〜1859)「言志四録 (その13)」 |
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| 1 道理は弁明せざる可からず。而れども或は声色を動かせば、則ち器の小なるを見る。 |
| 道理は黙識せざる可からず。而れども徒らに光景を弄すれば、則ち狂禅に入る。 |
| 言志後録 247 |
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| (意訳)人として正しい道は明確に識別し明らかにすべきです。だからと言って、それを |
| 余りに声高に言ったり表情に出したりするのは、器量・見識が小さいということです。 |
| したがって道理はあまり口には出さず腹に収めておくことも大切です。ただ、むやみに |
| 心の中で「ああだ、こうだ」と考え過ぎるのはかえって道を誤るもとになります。 |
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| (参考)要するに自分に確固不動の信念を確立することや、現実の状況と自己の姿を慎重 |
| に見つめ判断することの大切さを教えているものと思います。しかし、それもほどよい |
| 程度があります。また「ホンネ」は軽々しく外に出すものではないとも聞きます。 |
| 「狂禅」とは、野狐禅とも言い、覚ったつもりの生かじりの禅のことです。 |
| 「好みて大言を為す者有り。其の人必ず少量なり」 |
| 言志後録 68 |
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| 2 放縦任意は、固とより不可なり。按排矯揉も亦不可なり。唯だ縦ならず、束ならず。 |
| 従容として以て天和を養うは、則ち敬なり。 |
| 言志後録 248 |
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| (意訳)思いにまかせて勝手気ままに振る舞うことは当然よくありません。かと言って、 |
| 無理に加減して押さえこんだり、考えを曲げたりするのもよくないことです。勝手気ま |
| ま過ぎず引き締め過ぎず、心をゆったりとさせ調和を保つのが人としての慎みです。 |
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| (参考)「天下の事過ぐれば則ち害あり」(言志録65) 「心に中和を得れば、則ち人情皆 |
| 順い、心に中和を失えば則ち人情皆背く」(言志後録103)など、何れも「世の中は何事 |
| もほどほどに、腹八分にしておくのがよい」と教えています。 |
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| 3 凡そ古今の人を評論するには、是非せざるを得ず。然れども宜しく其の長処を挙げて、 |
| 以て其の短処を形わすべし。又十中の七はぜ是を掲げ、十中の三は非を退くるは、亦忠厚 |
| なり。 |
| 言志後録 249 |
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| (意訳)古今の人を批評する場合、当然その善悪をいうことになります。その際まずその |
| 長所を取り上げてから短所にふれることが肝要です。また、十中の七は良いところを、 |
| 残りの三を足りないところを上げるのは真心があり人情に厚いということです。 |
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| (参考)あたかも自分は万能であり全てを知っており、かつ道徳的良心の塊であるがごと |
| き「謙虚さ」とはほど遠い小賢しさの風潮が現代にありませんか。特に、歴史上の人物 |
| や事件は、その時代の背景が正確に理解されていないと判断を誤ると考えます。 |
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| 4 吾人の工夫は、自ら覓め自ら窺うに在り。義理混混として生ず、物有るに似たり。源頭 |
| 来処を認めず。物無きに似たり。
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| 言志晩録 4 |
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| (意訳)私たちが精神修養をする時は、自分の姿を広く見つめかつ焦点を当てて見つめる |
| ことが肝腎です。すると人としての生き方が湧き水のごとく出てきます。まるでそこに |
| 具体的な何かが存在するかようです。しかし、それがどこから生ずるのかは分かりませ |
| ん。その意味ではまるで何もないようでもあります。 |
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| (参考)日本曹洞宗始祖の道元はその著書「正法眼蔵」に「仏道をならふといふは、自己 |
| をならふなり。自己をならふといふは自己をわするるなり」と書いています。 |
| 老子は「知人者智。自知者明」(人を知ることは智者にすぎない。自分自身を知るこ |
| とは最上の明である。)と残しています。何れも自己を知ることの大切さとその難しさ |
| を教えています。 |
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| 5 胸次虚明なれば、感応神速なり。 |
| 言志晩録 5 |
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| (意訳)胸の中に疑念や不満などのわだかまりやこだわりがなく、透明で私心欲望がなけ |
| れば、心や感覚のはたらきは迅速に向上します。 |
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| (参考)執着する心・こだわりを捨てないと、見れども見えず聞けども聞こえずとなり、 |
| 新しい考え方など入る余地はありません。 |
| 中野孝次著「風の良寛」では、禅僧良寛が徹した「無為」の生活を紹介しています。 |
| 金剛経にある「応無所住而生其心」(応に住する所無くして而も其の心を生ずべし)も |
| 同じことを唱えているように思われます。 |
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