第18回三方限古典塾(08.4.18)
  佐藤 一斉(1772~1859)   「言志四録 (その11)」
1 余嘗(かつ) て曰く、「五倫に君臣有りて師弟無し。師弟無きに非ず。君臣は即ち師弟なり」と。
   今更に思うに、「師は特に君の尊(そん) 有るのみならず。而(しか) も父の親有れば、則ち父道も
   亦師道と通ず。長兄は父に若(なぞら) えば、即ち兄にも亦師道有り。三人行けば、必ず我が師
   有れば、則ち朋友も亦相(あい) 師とす。夫教え婦(つま) 従えば、則ち夫も亦師なる歟(か)。是れ
   則ち五倫の配合、適(ゆ) くとして師弟に非ざる無し」と。                     
                                                                                                 言志後録173
(大意) 私は以前「孟子の唱えた『五倫』の徳目は、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の間の
        徳であり、師弟がない。これは君臣の徳に師弟の関係も含まれるからだ」と言っていまし
        た。今は更に次のように思います。「師の道には君主の徳のみでなく、父の親愛、父に順う
       兄の徳、『三人行けば必ず我が師あり』の友人同士の信義、婦が従う夫の徳も含まれる。
       つまり『五倫』の何れの組み合わせにも『師弟』の関係が含まれている」と。
(参考)五倫「父子有親 君臣有義 夫婦有別 長幼有序 朋友有信」(孟子)
       「三人行、必有我師焉」三人一緒に行動すると必ず一人は学ぶべき人がいる。(論語)
       学校の先生と生徒、上司と部下、先輩と後輩などの関係には「五倫」の徳の何れも
        含まれるこ とになります。そこには奥深い意味があり、その重要さが実感されます。
          大いに自覚すべ きことのように思われます。
2  物には心無し。人の心を以て心と為す。故に人の贈る所の物、必ず其の人と同気なり。
   失意の人、物を贈れば、物も失意を以て心と為し、豪奢(ごうしゃ) の人、物を贈れば、物も
   豪奢を以て心と為し、喪人(そうじん)、物を贈れば、物も喪を以て心と為し、佞人(ねいじん)
   物を贈れば物も佞を以て心と為す。但(た) だ名有るの贈遺(ぞうい) は、受けざるを得ず。
   而(しか) も其の物の其の心と感通すること是(か)くの如くなれば、則ち我は受くるを
    屑(いさぎよ) しとせざる所有り。唯(た) だ君父の賜(たま) う所、正人(せいじん) 君子の
   贈る所、微物と雖(いえど) も、甚(はなは) だ敬重するに足るのみ。
                                                                                           言志後録 175
(大意) 物には本来心はありません。物の心は人の心と同じになります。つまり贈物には贈
       主と同じ気持があります。落胆した人の物には落胆の心、贅沢で派手な人の物にも、見放
       された人の物にも、媚びへつらう人の物にも贈主の心がこもっています。ただ名目がある
       贈物は受けないわけにはいきません。しかし、人と物とには心が通じ合っていることを考
       えると、贈物を受けることには自分の良心や誇りが許さないところが私にはあります。と
       ころが、君主や父、徳の高い人からの贈物については、それが例えわずかな物であっても、
        敬い重んじるべきです。
(参考) 贈物には、贈る人も贈られる人も気を遣うものですね。また、贈物についての感覚
         は国柄によっても大きく異なるようです。しかし、わが国のよき伝統となっているような
          奥ゆかしい習慣はいつまでも大切に引き継いでいきたいものです。
3 其の老ゆるに及んでや、之を戒(いまし) むるは「得(とく)」に在り。「得」の字、指す所の何事なるか
   を知らざりき。余、齢已(よわいすで) に老ゆ。因(よっ) て自心を以て之を証するに、往年血気盛んなり
   し時は、欲念も亦盛んなりき。今に及んでは血気衰耗(すいもう) し、欲念卻(かえ) って較澹泊(ややたんぱく)
    なるを覚ゆ。但だ是れ年歯(ねんし) を貪(むさぼ) り、子孫を営む念頭、之を往時に比するに較濃(こま)
  やかなれば、「得」の字或は此の類を指し、必ずしも財を得、物を得るを指さじ。人は、死生(しせい)
  命有り。今強いて養生を覔(もと) め、引年(いんねん) を蘄(もと) むるも亦命を知らざるなり。子孫の福幸も、
 自から天分有り。今之れが為故意に営度(えいたく)するも、亦天を知らざるなり。畢竟(ひっきょう) 是れ
 老悖衰颯(ろうはいすいさつ) の念頭にて、此れ都(す) べて是れ「得」を戒むる条件なり。知らず、
 他の老人は何の想(そう) を著(つ) け做(な) すかを。           
                                                                                                         言志後録176
(大意) 「君子三戒」(論語)に、老いてから戒めるべきことは「欲」だとあります。この欲
        が何を指しているのか知りませんでした。既に老いた今の心でこれを考えてみますと、若
        く血気盛んな頃には欲望も盛んでした。今になっては血気も衰え、欲望も淡白になった感
        じがします。ただ長生きを望み、子どもや孫のことを案ずる心が細やかになっています。
        ですから論語でいう「欲」とは金銭とか物への欲ではなく、長生きすることや子孫の将来
         を願うことを指しているのでしょう。
       人の生死には天命があり、個人の力は及びません。無理に健康を心がけて長生きを望む
        のは天命に逆らうことです。子孫の幸福にも天命があります。それをことさらに営み進め
        るのも天命に逆らうことです。とは言ってもこれは老いぼれ衰えた私が考えた「欲」を戒
         める要件です。他の老人がどう考えるかは知りません。
(参考) 君子有三戒。「少之時、血気未定。戒之在色。及其壮也、血気方剛。戒之在闘。及其
       老也、血気既衰。戒之在得」(論語) 君子に三戒有り。少き時は血気未だ定まらず。之
        れを戒むること色に在り。其の壮んなるに及びては血気方に剛し。之れを戒むること闘う
        に在り。其の老ゆるに及びては血気既に衰う。之れを戒むること得るに在り。
        「死生有命 富貴有天」(論語)人の生死や貧富貴賤は天命であり個人の力は及ばない
 久坂部羊「日本人の死に時」(幻冬舎新書、大阪大医卒、ディケア・在宅医療に従事)
  「ほどほどに生き、ほどほどに死ぬ哲学」「自然の時宜・時節をわきまえ、自然の摂理に
  逆らわない生き方」「天寿必ずしも長寿ならず」
 吉田兼好「徒然草」第七段 「住み果てぬ世にみにくき姿を待ちえて何かはせん。命長け
  れば辱多し。長くとも四十にたらぬほどにて死なんこそめやすかるべけれ。ひたすら世
  をむさぼる心のみふかく、もののあはれも知らずなりゆくらん。」
 津本陽「松風の人」(潮出版社、吉田松陰が30歳で処刑される直前の書)
 「十歳で死すとも、二十、五十歳で死すともその歳月の内におのずから四季がある。死は
  好むべきにあらず、憎むべきにあらず。道が尽きた時が死所なり。」
 道元「正法眼蔵」生死 「(生死を)いとふことなく、したふことなき、このときはじめて
  仏のこころにいる、だだし、心をもてはかることなかれ」