第12回三方限古典塾(07,10,18) |
佐藤 一斉(1772~1859) 「言 志 四 録(その5)」 |
1、此れ学は吾人一生の負担なり。当に斃れて後已むべし |
言志後録1 |
(学ぶということは、私たちに課せられた生涯の義務です。命のある限りは学び続けたいものです。) |
「斃而後已」(斃れて後已むべし) |
2、自ら彊めて息まざるは天の道なり。 |
言志後録2 |
(天体が昼夜怠りなく運行しているように、自ら励み怠らないように努めましょう。) |
「自彊不息」(自ら彊めて息まざる) |
3、凡そ教は外よりして入り、工夫は内より出ず。内より出づるは、必ず諸れを |
外に験し、外より入るは、当に諸れを内に原ぬべし。 |
言志後録5 |
(人や本からの知識はすべて外から入ってきますが、知恵や工夫は自分の内からででくるものです。 |
自分の内からでるものは、外の世界で検証することが大切です。外からの知識などは、根本に |
さかのぼって自分のせの正否を検討すべきです。) |
「読書の孟子三言」:意を以て志を逆う、尽くは書を信ぜず、人を知り世を論す |
4、吾人は須く自ら重んじることを知るべし。我が性は天爵なり。最も当に貴重すべし。 |
我が身は父母の遺体なり。重んぜざる可からず。威儀は人の観望する所、言語は人の信を取る所なり。 |
亦自重せざるを得んや。 |
言志後録6 |
(私たちは自分を大切にすることが大切です。生まれつきの性格は天から与えられたも |
の身体は父母が残してくれたもの、礼に適った立ち居振る舞いは人が見ているもの、 |
言ったり書いたりする言葉は人の信用を得るものです。いずれも自重すべきです。) |
「道元弾師(正法眼蔵)」:威儀即仏法 |
5、天地閒の霊玅なるもの、人の言語に如く者莫し。禽獣の如きは徒に声音有りて、僅 |
に意嚮を通ずるのみ。唯だ人は則ち言語有りて、分明に情意を宣達し、又抒べて以て文 |
辞と偽さば、則ち以て之を遠方に伝え、後世に詔ぐ可し。一に何ぞ霊なるや。惟だ是く |
の如く之れ霊なり。故に其の禍階を構え、釁端を造すも亦言語に在り。譬えば猶お利剣 |
の善き身を護る者は、輒ち復た自ら傷つくるがごとし。慎まざる可けんや。 |
言志後録10 |
(世の中ですばらしいもので、人の言葉に勝るものはありません。鳥や獣はただ声で気 |
持を伝えるのみです。人は言葉ではっきりと感情や意志を伝えます。心中の思いを文章に |
すれば、遠くの人にも後世の人にも教えることができます。なんとも不可思議です。 |
ただそのために、禍のもとになったり争いのきっかけになったりもします。 |
これは良く切れる刃は自分を護るためには役立ちますが、反面自分を傷つけやすいも |
のであるのに似ています。言葉にはじゅうぶん気をつけましょう。) |
「口は禍の門」 |
「物いえば 唇寒し 秋の風」(芭蕉) |
「病は口より入り、禍は口より出ず」 |
言葉の力を見直す、言葉の教育を見直す。 |
6、「寧ろ人の我れに負くとも、我れは人に負く毌らん」とは固に確言となす。余も亦謂う、 |
「人の我に負く時、我は当に吾れの負くを致す所以を思いて以て自ら反りみ、且つ以て |
切磋、砥礪の地となすべし」と。我に於いて多少益有り。烏んぞ之を仇視すべけんや。 |
言志後録11 |
(「たとえ人が自分に背くようなことがあっても、自分はその人を背むくようなことはし |
ない。」とは、本当にそのとおりです。私も次のように言っています。「人が私に背 |
いたときには、なぜそのようなことになったのかを考え自分を反省する。それによっ |
て自分を磨き高める機会とする。」それは私にとってたいせつな修練の機会となります。 |
どうして仇敵と考えることがあるでしょうか。 |
「他山の石」:自分の品行を磨くのに役立つ他人のよくない言行 |
「人は良きことからも学ぶが、反面悪いことからも多くを学ぶ。」 |
「三風五雨」 |
「他人の過ちから学べ。自分ですべての過ちを経験する時間はない。」 |