モットモット病
    浄土真宗 草の花会館 住職 ホトトギス同人 青野 沙人 (故、当時 87歳)
 私の行きつけのO医師は、超音波の権威者でありながら漢方薬療法、精神療法に
ぞうけいが深くそうしたグループの会も毎回開いておられる。O医師の父上は又、有
名な内科医で私が終戦後宇宿の寺に勤務していたころ正月の門徒廻りの際、或る
家でメチールをしたたか飲まされた。いやらしいから飲んだのでまさかメチールがそ
れほど毒害を持つとは知らなかった。その夕方から全身にふるいが来て、さむいさ
むいとふとんをかぶった。それでもまだふるう心臓の脈拍は早ガネのように打つ、
ふとんをありったけ着せてもらい来合わせていた友人の大男にふとんの上に乗っ
てもらっておさえつけてもらったがふるえが止まらない。遂にその男が隣町郡元
(O医師はその当時に郡元に居られた)O医師に往診を依頼した。O医師は大男
であったすぐに自転車で走ってきてくれた、すぐ注射を打って下さった。そこで一
命を取り止めることになった。今考えてみれば、そのO医師が来てくれなかったら
私はそれきりアノ世の人となっていたにちがいない。
 正にO医師は私の命の大恩人であったのだ。
 そのO医師にその後二三度お会いしたことがあったが、すでに逝去されて十年
になるであろう。
 そこでやっぱりO医師の亡きあと御子息四人共医学界の今重鎮になって活動し
て居られ私は御長男のO医師のお世話になってる次第である。
 O医師にかかり通し検査し通しだから私の体調は手のひらを見るより明らかにご
存知であるので診察のかたわら冗談めいた問答がはじまるのである。
 O医師「このごろんしは『モットモット病』にかかっとるようごわんどな、この前老人
会で話をしてくれとたのまれたときこの『モットモット病』についてかたりました。人
間の欲望ちゅうは、どこまで行ってもキリがごわはんなア・・・・・・」
 私は「ほんまごわんが、生きとし生ける人間みんなごわんさあ おいしゃはんも
ぼんさんも」
 Oさん!いけんすればよしごわんそかい。
 私!やっぱり、この前申し上げた「少欲知足」でそれぞれ自分に与えられた分任(ぶんにん)
をよろこぶ、ありがとうと感謝して生きることですけど、仲々言うようにはいかぬもの
ですな。私はこの前、これの標語を作って見ました。「足ることを知りて足らざること
のなし」よく出来たと思いましたが、日本中、世界中このことばは誰かが作ってある
にちがいない。これは人まねだ、(とう)作だと言われんように注意はしているんだが。
 お互いの言葉の遊ギではたすからない。なんとか今の自分を、そして地球を救う
ことに貢献したいの一念である。
 そしてO医師から社団法人生命科学振興会 (題字の揮毫 故、湯川秀樹
理事長 松岡英宗) の雑誌「ライフサイエンス」を戴いた。
 この雑誌から三つの理念を紹介したい。
○生命の尊厳のために
 「いのちの尊さは、人種や民族の壁を超えた人間すべてが平等であること。人間
としての尊厳性を認め合って、思いやりの心で共生することから始まります。
 更に生息する動植物に思いを致し、これらを育ててくれた地球が、大いなる生命
そのものであることを認識しその尊さを忘れてはならない。
○人間、社会、自然の調和のために
 人間が共存していくため、互に接し合う社会との調和なくして健全な人間社会は
築くことができません。
 更に悠久の歴史を刻んできた大自然があり、その恩恵によって人間が生かされ、
社会が生活を営むことができるという認識が必要です。諸々の科学も哲学も宗教
も、人間、社会、自然という三位一体の調和の中で共存することが、人間生存の
理法、条件ともいえましょう。
○生命を育む科学の創造のために
 「生命」の意味を問い質しましょう。とにかく人間の自己本位に(おちい)りがちな科学
のあり方に転機がきています。
 人間の物質的豊かさの追求が社会に弊害(へいがい)を与え、自然を荒廃(こうはい)させることのな
いよう、物と心が一致した科学を創造しなくてはなりません。より総合的な生き方
の感性と知性を作り上げようではありませんか。
 以上は、生命科学振興会の三つの理念であった。
 そして 今月のことばとして
 「金の貧乏になっても 心の貧乏になるな」
を掲げてありました。
 私はこの雑誌を読みながら「科学」というものの広さ、限りなさを見せられた。
「生命科学」とはもちろん医師の専門かも知れないが、これからの人間社会の
幸せのために計り知れない力を持つものだと感心した。
 そして科学者が見る地球と自然の人間の将来は、このままでは自滅に至る日
も近からんとみて、如何に暴走の歯止めをすべきかに協力を求め運動を高めて
居る事に敬服することであった。
  モットモット病
 話しは先に立ち返って、O医師の言われるモットモット病については、私も同感
であるし、よく内観し、分析して思考をこらすべきだと思った。
 「世の中は一つかなえば又二つ三つ四つ五つ六つかしの世や」「世の中の人
の心と降る雪はつもるにつんで道をわすれる。カロウトイエバビビニノル(おんぶ
してやると言えば頭にのる)四国語で「さいあがる」普通語で「つけあがる」もっと
ほしい、もっとほしい、いくら取っても、取らとるほどほしいが増長する。
 中国の孔子は「衣食住足って礼節を知る」と言われた。ほんとうにその通りだっ
た衣食住の最低線にも行きつけない貧民に礼節どころではなかった。
 三千世界に子を持って(ひん)ほど(つら)いものはない。と明治のひとは(なげ)いた。然るに
戦後復興甚だしく徐々にそして急速に物質が豊富になった。
  (みち)ちたるはかなしきことよ子供の日  香霧
 今から十七年前昭和五十五年沼口香霧氏の作であった。それから加速して経
済大国となった日本、物資は(ちまた)にあふれるようになった。生き残りのわれら老た
るは、朝から晩まで感謝感激雨あられ、で暮らさなならん筈なのに、何だか顔が
うかない。まして貧困を知らん若者達には、ご恩とか感謝の心が見えてない。見
えないどころか不足不平でいっぱいだ。なぜだろう。人間という代物(しろもの)が、不可解
だからである。人間という代物は、欲のかたまりだからである。
 欲に三つある。意欲と我欲と貪欲(どんよく)である。意欲とは、我をみがき世のために貢
献せんとはげむ心の欲である。我欲とは人間の本能的利己主義で我さえよけれ
ば人はどうでもよいというエゴである。貪欲(どんよく)とは、我欲に目がくらんで智恵も分別
も分らなくなって無軌道なことをやって憚らない。邪魔者は殺してもといった凶悪
犯につづく欲である。文字に書けばよく分別するようであるが実際の自分の心の
うごきだからいつの間にやら意欲と貪欲(どんよく)とが自分で見さかいがつかなくなるので
ある。(せん)じて見ればこわいのは人の心、わが心である。
 だが仏の目から見れば人間は所詮、欲のかたまりである。とある。中治親分は
子分に向いて「馬鹿は死ななきゃ治らない」と言った。
 如何に物質文化は進んでも、例えば世界一の精巧な自動車が出来たとしても
それに乗る人間がその文化に相応しなかったら直ちにオンボロ車同様破壊する
であろう。
 キリスト曰く、人はパンのみによって生きるにあらず・・・神のことばによって生き
る。されど現代のキリストなれば「人は神のことばによって生きさえすれば、パンは
おのづから与えられるものである」と申すであろう。死ななきゃ(なお)らないとは死ねば
治るということだ。その死ねば治るということを洸女さんは今なお修業中である。
人間の最も尊厳なる死の向こうに(死は終わりではない)輝かしい生の始まりがあ
るのである。
    俳句雑誌  草の花  577号    1996(平成8)年4月1日発行 より転載
少欲多幸の等式
モットモット病には気楽が薬
モットモット病に良薬を発見
生命科学振興会